17歳(平成26年5月1日)

~藤圭子にささぐ~

15,16,17と

どの顔も美しい

顔の造作がいかにあれ

どの顔も輝かんばかり

15,16,17と

生存競争が行なわれ

勝つ者、負ける者、

脱落する者、頂点を極める者

過酷きわまりない季節

15,16,17と

その頭では知らないこと

18,19と

ますます生存競争は激しくなる

すさまじい喉笛の切り合いが始まる

けれども

ますます人の顔は美しくなる

 

80歳女性の静かな愉しみ(平成26年5月1日)

一人目の人は言う

もうね、育児も終わったから

すいかを育てるのが私の愉しみ

ネットをかけたり、袋をかけたり

こんな大きなすいかができるのよ

運ぶのがたいへんだけれどね

これがいちばん愉しいよ

二人目の人は言う

私はコーヒーを入れるのがうまいのよ

半プロだもんね

友達が来たら

神戸の豆屋から取り寄せた豆で

入れるのさ

毎週1回取り寄せる

京都の豆は使わないよ

三人目の人は言う

だーれも人は来ないよ

それが私はいちばん好き

庭に出て、来る日も来る日も

草引きする

部屋には大きな犬がいるよ

私はこわいので

犬は言うことをよく聞くんだ

海の見える丘(平成26年4月29日)

強い雨の降り続くこんな夜に

平和な心でいることはむずかしい

おまけに今夜は亡父の納骨をすませた夜だ

昼前の一瞬の晴れ間に

経をあげに正装で現れた僧侶を見たとき

目がしらが熱くなった。

葬儀の日はまた雷の鳴る豪雨

車のフロントグラスの前がみえないほどだった

そのときにも同じ僧侶が経を唱えた

丘の上にある墓園から明石海峡が見える

明石海峡大橋の巨大な柱が白く日に輝く

鶯が鳴く二度三度

亡父の好きな鳥だった

 

 

一代限り(平成26年4月28日)

神戸元町三宮

昭和20年以前から今に続く店は

ひとつもない。

昭和20年以降から今に続く店もまた

ひとつもない。

これは衣料品店、飲食店、小売店など

すべての店が一代限りということだ。

一代限りが寄り集まって町の賑わいが継承されていく

考えれば、人そのものが一代限りである。

自分というものは一人しかいない

一代限りがより集ってこの世の賑わいが作られていく

ならばこそ一夜切りなんて言わないで

連日連夜遊ぼうではないか

遊びをせんとや生まれけん

たわむれせんとや生まれけん

遊ぶこどもの声聞けば

わが身さえこそゆるがるれ

 

京の山々(平成26年4月27日)

まもなく4月が去っていく

日付が変わろうかという時刻が来た

急に4月がいとおしくなった

行きて帰らぬ4月の日々よ

京の山はおしなべて山頂が平らだ

風雨のためなのであろう

どの山もどの山も山頂が丸く見える

嵯峨とは急峻な山という意味である

平安のころはそうだったのだろうか

丸い山には不満である

神戸六甲山もやはり丸い

融けはじめたソフトクリームのようだ

作りたての角のとがったソフトクリームの

ような山はどこにもないのだろうか

萩の木(平成26年4月27日)

萩は春に新しい葉を出し、

冬には枯れる。普通の落葉樹だ。

成長が早く、夏に一度、根っこから

切り取る。その後また急成長して

秋に花を咲かせる。夏に切り取らないと

背丈が高くなり2メートルを超える。

低木で花を楽しむ木なので、

夏には一度切るわけだ。

今朝、遅いのだが、去年の冬に刈れた幹と

枝を切り払っているとき、根元を見て

発見したことがある。

萩は根を四方八方に伸ばして、

伸びていった先で、幹を伸ばして

一株になる。放置しておけば萩は

一面に広がりそうだ。

こんなことは

植物にくわしい人には常識だろう。

 

葉っぱそうじ(平成26年4月27日)

早朝と午後に2度にわけて

葉っぱそうじ。どんぐりの木から

落ちた葉とモミジの枯葉。

始めると楽しいので、

目にすなぼこりが入っても

頭にテントウムシがとまっても

かまわず続ける。

夜になって目が痛んだ。

防御メガネをかけ、手袋をはめ、

膝おおいをつけ、つまり

葉っぱ集めの正装をしなくてはならなかった。

言葉は魔法(平成26年4月23日)

人と人が語り合うとき

相手の言葉にいくらかは納得する

おたがいに納得し合うので

別れたあとには相手の語ったことの

一部分が自分のなかにとけこんでいく。

その反対に相手の中にも自分が

語ったことが一部分しみこんでいく

こうして人と人とはたがいに影響を受ける

影響をうけない者どうしのあいだでは

つぎに語らうことはしない。

人と人が語らうことはたがいに

魔法をかけあうことだ