アジサイは今日も
色合いの異なる薄紫の花を咲かせていた
6月の見慣れた風景であるが
その張りつめた花のひとひらは
厳粛そのもの
花ひらくためには
われとわが身は種にならねばならぬ
花ひらくのはわが身ではない
念ずるばかりか
わが身一身のことは
忘れてこそ
はなひらく
アジサイは今日も
色合いの異なる薄紫の花を咲かせていた
6月の見慣れた風景であるが
その張りつめた花のひとひらは
厳粛そのもの
花ひらくためには
われとわが身は種にならねばならぬ
花ひらくのはわが身ではない
念ずるばかりか
わが身一身のことは
忘れてこそ
はなひらく
いつも送られてくる税理士事務所の
1枚の通信で知ったのだが、
坂村真民という名の仏教詩人が
いたという。
『念ずれば花ひらく』という題の詩集を
出版しているというので1冊注文することにした。
ネットで見つけた1編の詩がある。
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花は一瞬にして咲くのではない。
大地から芽から出て葉をつくり、
葉を繁らせ、成長して、つぼみをつくり花を咲かせ、
実をつくっていく。
花は一瞬にして咲くのではない。
花は一筋に咲くのだ。
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そこでオマージュを。
太古の昔にひらいた
ひとひらのはなびら
受けつがれて受けつがれて
10万年を超える時間を
わたってきたのだ
今ここにひらく
ひとひらのはなびら
受けつがれて受けつがれて
10万年を生き延びていくのだ
無心に無心に
未来なんて考えもしないで
5月末に36度まで気温が上がった。
すっかり夏気分になった。
ところがこのところ30度をわずかに
超える程度の気温が続く。
地面が午前中から熱くなる感じは
まだなくて、やはり、今は夏が
始まる前の助走なんだと
気づかされる。
アイスコーヒー作りの季節がやってきた
しまってあった器具を取り出して
作り始めた。
ところが水がしたたり落ちない。
点滴の穴を掃除してみると
したたり始めた
出来上がりを試飲してみたところ
味が薄くて麦茶のよう。
コーヒー豆の粉を掃除してみて
わかったのは全体にしみていなくて
水がどうやら素通りしてしまったようだ。
という次第で本日は失敗の結果。
ワールドカップも負けたし
ついていない日曜日だったようだ。
先生に引率されて
小学1年生の集団が
2列になって道を進む
それを見て手を降り続ける
海外からの旅行者
日本で言えば還暦をとうに過ぎた婦人である
かわいいなあ、いいなあ、戻りたいなあ
そんな気持ちが表情にあらわれていた
6歳には年なりの魂がある
考え感じ苦悩する魂がすでにある
そんな魂を内に秘めた一群が
過ぎ去ったあと
くだんの婦人は何を思ったのだろう
「現代教養文庫」という文庫本がかつてあった。
「私は信ずる」は
昭和32年に初版で、私が持っているのは
昭和43年の27刷りのもの
活字は現在の文庫本より一回り小さい
紙は黄ばみ字は薄れ古色蒼然としている
私以外には
誰からも忘れられた本のひとつである
中身はイギリスで1940年に発行された
エッセイ集である。
やれ終活だ
やれエンディング・ノートだ
やれ生前葬だ
こんな言葉がちまたにはやる
雨あられと
こんな言葉がふってくる
陰気な言葉が世間を闊歩する
これはたまらん
誰か言わないのか
オレは生きるのに忙しいのだ
後は知らんぞ
よろしく頼む
フロイトかく語りき
言い間違いの中に
その人の真実が現われる
ある人が私にかく語りき
腕の脚力が衰えてねえ
あるいは
脚の腕力が衰えてねえ
だったかもしれない
このとき人生の真実は何だろう
純粋にただの言い間違いなのか
こんなことを考えていると
空を流れていく雲と自分がひとつに融け合って
雲を見上げているのか
それとも
雲を見下ろしているのか
どっちだってよくなってくる
大切にしている持ち物
ほんの数点
ボールペン、皮革のサイフ、
腕時計
もらったものばかり
月日は百代の過客
芭蕉は奥の細道をこう書き始めた
6月もまた百代の過客の一人である
きょうもまたおのれにできることと
できないこととを見分け
できることには全力でたちむかい
できないことは静かに受け入れる
古人はかく語っている
変えることのできるものについて
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ
変えることのできないものについては
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ
そして
変えることのできるものと変えることのできないものとを
識別する知恵を与えたまえ
まことに6月は知恵の雨がふりそそぎ
老いたる者の上にも
歩く寸前の乳児の上にも
平等にふりそそぎ
われらはその豊饒に育てられるのである
本棚に並んだ本の中には
遠い日に読んだ本、そして今も
捨てられない本が数冊ある。
そのなかの1冊
『私は信ずる』
フォースターという作家のエッセイが
お気に入りだった
そのひとくさり
私がもっとも尊敬する人たちは
まるで彼らが不死の人間であるか、
社会が永遠のものであるかのような風に
行動している。
こうした仮定はいずれも誤りである。
だがもしわれわれが今後も食べ
働き、そして愛しつつ生きていきたいならば
これらの仮定を真実として受け入れなければ
ならない。