すいふよう。
花期が長い。
酔芙蓉 君は7月 逝きて見ず
すいふよう。
花期が長い。
酔芙蓉 君は7月 逝きて見ず
石畳にゴザを敷き
寝そべれば
行く雲 青空 時折の風
なすことはなにもなく
人も犬も同じに
草花 石清水 溶け合って
宇宙(コスモス)になる
夜明けのコーヒーをいれると
香りが部屋に充ちて
ムーミンは目をさました
お父さんはペンキ塗りを始めていた
「お父さん、生きるってどういうこと?」
「いらない物を片づけることさ」
服を着たムーミンは
部屋のゴミを片づけ始めたのだった
夏の終わりの朝はひんやりと
空気がおいしく
ムーミンは思いっきり息を吸ったのだった
アドラー心理学の野田俊作氏が8月16日ブログで
肯定文の力という題で記述をなされている。
忘れ物をしないで。という代わりに
持ち物は全部持ったの。
これはとても大事なことである。
ぜひその通りにしたいと思う。
自分に対して、他人に対して
肯定文で話しかけよう。
ところがこと文学の世界では逆転する。
文学は否定文において輝きを放つのである。
与謝野晶子の弟へささげた詩の題は
『君、死に給うことなかれ』である。
仮に、『君、生き給え』なら
平板な退屈な詩句となってしまう。
肯定文の世界と否定文の世界。
現実世界では肯定文を使い
文学という仮想世界では否定文を使う。
私たちには両方が必要なのである。
両親に連れられて
お盆に帰省した〇〇子ちゃん
幼稚園の年少さんである
棚田には稲が育ち
その向こうには湾が見える
おばあちゃんと森を散歩した
木の根がグングン成長すると
地球の反対側に突き抜けるのじゃないのと
心配した
おばちゃんは幼児の手を握りながら
答えた
木の根はね
地面の下にまっすぐに伸びていくのじゃないんだよ
木の根はね
地面のすぐ下を横へ横へと伸びるんだよ
風にあおられて大木が倒れるのは
そういうわけなのさ
1次試験が終わった
両親に手紙を書いた
やさしい問題だったので
英数は満点、国語は9割程度
4日後の2次試験に進めそうです
2次試験に合格しても入学するのはいやだな
大都会の人の多さに酔ってしまいます
合格してから考えることにします
帰りは1週間先になります
もう一度
15歳 高1 8月 夏休みに
戻ることができたら
海の近くの山間の村へ行のだ ひとりで
数学問題集1冊と中原中也詩集1冊を持って
そして家の両親宛てに手紙を書くのだ 鉛筆で
お父さん お母さん 元気ですか
妹は元気ですか
僕も元気です
数学問題集あと10問を解いたら終わります
2学期数学の試験 100点をとりたい
中原中也詩集は全部暗唱できます
将来詩人の数学者になりたいです
早朝浜を歩き
波を見ていると時を忘れてしまいそう
来週帰宅します
名もない大学の万年准教授
読書家にして資料収集に熱心なのだが
とんと論文らしきものを書いたことがない
このまま定年を迎えるのだろうと
学内外の誰もがそう思っていた
気ままな一人暮らしに
明け暮れし
部屋は散らかり放題
買い求めた物の包装紙などが
たまる一方
ゴミだしをしたことがなかった
その日もコンビニ弁当を食べながら
テレビをつけると
ゴミ屋敷の特集番組がかかっていた
あまりの乱雑さに食欲を失いかけたのだが
なんと自分の家とそっくり
そうだこれぞゴミ屋敷なのだ
この始末を誰がするのか
思案にふけりつつ
飼い猫を抱いて布団にくるまった
消灯時間をすぎて暗くなった病室で
輾転反側していると
おなかがすいてきた
パンが食べたいなと思っているうちに
イタリア語でパンはなんというのだろう
とんでもなく思考が脱線を始めた
ベッドを抜け出して
非常階段から病院の屋上にでた
家の方角を探していると
毎朝駅で出会っていた名まえを知らない
女の子を思い出した
退院して家に帰り高校へ通学するようになったら
駅で朝会ったとき初めて話しかけてみよう
おはようと言ってみよう
そんな勇気がわいてくるだろうか
夜景を見ていると悲しくなってきた
この世間には無数の人がいて
無数の生き方をしている
どれが良くてどれが良くないと
言えるものではないのだが
ここに一人健気な少女がいる
年齢は16歳
看護学校にかよう生徒だ
病弱な母親と不登校がちな中1の妹がいて
朝に起きれない母に代わって
妹に弁当を作り学校へ送り出す
自分の弁当は時間を惜しんで作らず
パン屋で買うことにしている
20歳になったら卒業
試験に合格したら晴れて看護師
母を助けて家計をになう日を夢見ている
天のどこかに女神がいるのなら
きっとこの女の子を愛してやまないだろう