正月さみし(平成28年1月10日)

さびしいときには鉛筆を削ろう

こんな詩を書いた少女がいたのを

思い出した

半世紀も前のことだ

鉛筆を使うのがふつうだった頃

削るのは機械を使ったのか

それともナイフを使ったのか

実体験がないとこんな詩は書けないはずだ

さみしいと

いいあっていたあの頃の自分たち

 

正月が終わって早くも十日

エア・ポケットに突然落ちたかのように

さみしくなった

ふだん会えない者が相集い

感情がゆさぶられる

感情だって箱に入れられるのだ

箱の中身が引っ張り出される

別れたあとの言い知れぬさみしさ

いっそ会うのじゃなかった

激しい後悔は後の祭り

祭りの後はさみしいと

人は言う

それでも会わずにいられない

年に一度のお正月

 

 

言葉は変わる(平成28年1月4日)

鰹節はきっと鰹干しから変化したものだろう

竹取物語は婿取物語から変化したものだろう

竹を基軸に据えながら物語の舞台が設定される

けれども

竹は舞台設定以上の意味は持たされていない

物語の中心はかぐや姫の婿に誰が選ばれるかにあるのだから

婿取り物語が内容を表した題であろう

語り継がれるうちに

竹取物語へと変化していったにちがいない

この強靭さ(平成28年1月3日)

人間は考える葦である

パスカルかく語りき

同時に人間は強靭である

いつも思うのだ

アフリカ大陸から歩き続けて

大陸の果てに到り

氷河期が何度もあった

それでも歩き続けた

靴もなく足の裏から血が流れただろう

食べ物もなく

けだものの肉だけを食べて

いったい何が楽しくて

そんな苦難に耐えたのか?

 

子どもらの笑う顔悲しむ顔に

限りない慈しみを感じて

親たちは生きる勇気をふりしぼったのだろう

老いた親を看取り残して立ち去る

涙をぬぐうこともできず

それでも生きる責任の重さをかみしめたのだろう

万事金の世の中(平成28年1月3日)

その頃空は今よりも美しく

水は今よりずっと澄んでいて

海に油が浮かんでいたりはしなかったろう

貨幣がなかったあの頃のこと

 

いったん領主の怒りにふれたならば

生き埋め 火あぶり 水中投棄

命を差し出すことでしか許されなかった

 

貨幣ができて以来

金で解決されるようになった

命を奪われることがなくなった

 

お堅い話で言えば

原始 人類は刑法と刑罰しか知らなかった

そこへ貨幣とともに市民法と金での償いが考え出された

これを進歩と言わずして何と言おう

嗤いたければ嗤うがいい

万事金の世の中に成り果てたと

 

父が殺され 母が殺され 子どもが殺される

そんな時代よりも

たとえ水よごれ 空汚れ 海にごろうと

金で解決される世の中が住みよいと

守銭奴はこんなことを考えながら

元旦の賽銭箱に金を投げ入れた

 

 

 

 

詩の書けない時(平成28年1月1日)

どんなに思いをめぐらそうとも

詩の書けない時がある

書けなければ詩人ではない

ただの人である

ただの人でいたくなければ

一行でもいい

いや一語でもいい

何か心にとどまる言葉を書きつけよう

ある日ある時

誰かから放たれた一語

あるいは自分に浮かび上がった一語

なぜかはわからないけれど

深く心に届いた言葉ひとつ

その言葉ひとつがあるとき結晶していく

詩人はひたすら待たねばならない

言葉ひとつさえも残らない無数の日々がある

それでも

ひたすら待たなければならない

 

 

 

 

 

 

惜別 愛別(平成28年1月1日)

それはあまりにもあたりまえに

そこにあるものだから

その自然さ その当然さ

昨日と同じように今日があって

今日と同じように明日が続く

その自然さに

いつの日か

消えていくことに なくなっていくことに

思いを寄せることもしない

それが愛だとは気づくことなく

 

いつまでもひたっていたい

あなたとわたし

 

うるう年(平成27年12月31日)

平成28年 西暦2016年

うるう年である

一日得したような気分になる

明日は手つかず

こんなことわざがある

明日はまっさらな時間が開かれている

やり直し 出直し 再出発

新たに生きることができるのだ

明日は手つかず

 

【映画評】Foujita(平成27年12月31日)

12月に「Foujita」という題の映画を見た。

フランス語で書かれた名前を日本語表記に戻すと

藤田になる。

藤田嗣治(つぐはる)という名の画家がいた。

彼をモデルにした伝記映画である。

 

1886年に生まれ、1968年、スイスの病院で亡くなった。

パリで絵画を売って暮らしを立てた初めての日本人画家である。

私がこの画家に興味を持つのは、フランスにあって

おそらく劣等感を持たなかったと思われることだ。

ピカソやモジリアニらに交わって、互角に勝負ができたではないか。

 

書きたいことはたくさんあるけれど、

映画の中に出てくる高村光太郎の「雨に打たるるカテドラル」という

高村光太郎の詩のことを残りのスペースで書きたい。

映画では雨の中、傘をさし、ノートルダム寺院に向かって、一人の男が

詩を吟じている場面がある。

光太郎の詩はいつもそうなのだが、勇壮という言葉がふさわしい。

おうまたふきつのる雨風

このリフレインが基調をなし、雨の日も晴れの日も飽きず見上げ続け、

ノートルダム寺院と自分とが対峙するのだという気迫に満ちた詩である。

確かに詩の題は「雨に打たれる」だが、光太郎はノートルダム寺院に日参しているので晴れの日も曇りの日もあったはずだ。

そうなのだからあえて撮影に雨の日を選ぶ必要はなかったし、

雨が生かされているとも思えない。観光客が絶えることなく

訪れる寺院にしては他に誰もいないさびしい画面になってしまった。

 

「雨に打たるるカテドラル」は忘れられている詩のひとつだし、光太郎も忘れられた詩人のひとりである。

そんな詩をとりあげた小栗監督の意図は成功したのかどうか。

嗣治と光太郎。

二人ともに戦争協力者と呼ばれ、戦後に追放されまたは隠遁させられた運命を共通に持つ。

それぞれの戦後があり

芸術家の魂は一貫して生き続け

作品を作り、残し、われわれに今も鑑賞させてくれるのである

 

正月(平成27年12月29日)

正月

羽子板

(あごが痛い)

百人一首

(一酒ならなおいい)

ふくからにあきのくさきのしおるれば

むべやまかぜをあらしといふらん

小倉百人一首にふくまれているけれど

今なら小学生が詠みそうな歌である

風と言う字 嵐という字

書きにくく

何度書いても満足がいかない

漢字もちゃんと知ってるのだぜ

見せびらかしたいがための歌かもしれない

 

 

約束はされているの(平成27年12月25日)

今日詩を書いたからといって

明日も詩を書けるとは限らない

芸術や文芸や創作にたずさわるとは

約束されていない地点に立つことだ

機械化されたあるいは

手順の確立されたことなら

昨日できたことが今日もできるだろう

歌手は明日も歌えるだろうかと

気をもむ必要はない

小説家 画家 詩人 歌人

これらの人は

過去に小説を書いた人

過去に絵を描いた人

過去に詩を書いた人

過去に歌を詠んだ人

未来は誰にもわからない