フロイトかく語りき
言い間違いの中に
その人の真実が現われる
ある人が私にかく語りき
腕の脚力が衰えてねえ
あるいは
脚の腕力が衰えてねえ
だったかもしれない
このとき人生の真実は何だろう
純粋にただの言い間違いなのか
こんなことを考えていると
空を流れていく雲と自分がひとつに融け合って
雲を見上げているのか
それとも
雲を見下ろしているのか
どっちだってよくなってくる
フロイトかく語りき
言い間違いの中に
その人の真実が現われる
ある人が私にかく語りき
腕の脚力が衰えてねえ
あるいは
脚の腕力が衰えてねえ
だったかもしれない
このとき人生の真実は何だろう
純粋にただの言い間違いなのか
こんなことを考えていると
空を流れていく雲と自分がひとつに融け合って
雲を見上げているのか
それとも
雲を見下ろしているのか
どっちだってよくなってくる
大切にしている持ち物
ほんの数点
ボールペン、皮革のサイフ、
腕時計
もらったものばかり
月日は百代の過客
芭蕉は奥の細道をこう書き始めた
6月もまた百代の過客の一人である
きょうもまたおのれにできることと
できないこととを見分け
できることには全力でたちむかい
できないことは静かに受け入れる
古人はかく語っている
変えることのできるものについて
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ
変えることのできないものについては
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ
そして
変えることのできるものと変えることのできないものとを
識別する知恵を与えたまえ
まことに6月は知恵の雨がふりそそぎ
老いたる者の上にも
歩く寸前の乳児の上にも
平等にふりそそぎ
われらはその豊饒に育てられるのである
本棚に並んだ本の中には
遠い日に読んだ本、そして今も
捨てられない本が数冊ある。
そのなかの1冊
『私は信ずる』
フォースターという作家のエッセイが
お気に入りだった
そのひとくさり
私がもっとも尊敬する人たちは
まるで彼らが不死の人間であるか、
社会が永遠のものであるかのような風に
行動している。
こうした仮定はいずれも誤りである。
だがもしわれわれが今後も食べ
働き、そして愛しつつ生きていきたいならば
これらの仮定を真実として受け入れなければ
ならない。
奥山にもみじふみわけ
鳴く鹿の声きくときぞ
秋は悲しき
言わずとしれた小倉百人一首の歌
梅雨とアジサイの6月からは
ほど遠い季節の歌
しかし季節外れもまたよし
常識外れの読み方をしてみたい
きみとぼくふたりは木々の根っこに
足をとられないよう気をつけて
しだいに山の高みへと歩みを進めた
下界の物音が聞えない無音の世界へと
たどりついた
紅葉は散り始めてまるでじゅうたんのよう
ふたりはもみじ葉の上に持参のビニルシートを
広げて寝そべった
木漏れ日がさしてくる
秋っていいな
そのとき鹿の鳴き声が聞えた
こちらへ近づいては去る足音の気配がした
ふたたび無音の世界
きみとぼく
ふたりだけ
秋っていいなあ
失われたものよ
よみがえれ
6月の夕空はどこまでも青く澄みわたり
きみの瞳にうつっていた
いつまでものぞいていたかったのだが
愚かな者は帰り道に心を奪われてしまった
失われた6月の空の色も
きみの瞳も
失われたものよ
よみがえれ
数限りない思い出がわきあがる6月
暮れなずむ空の色に
とけていく時刻におきたこと
ばかりがよみがえる
いつまでも暮れないで
夕焼けがいつまでも続くように
願ったあの日々
失われたるものはなぜかくも美しい
ネット検索をかけてみると
歌の意味の説明が物足りない
補足してみた
瓜はめば なぜ こどもを
思うのか
こどもにこんなにおいしい瓜を
分け与えて食べさせてやりたいのに
それが今はできない
栗はめばましてしのばゆ
栗を食べているとあまりにおいしいので
わが子にこの栗を食べさせてやりたい気持ちに
かられる。しかしそれが今はできない。
瓜 ⇒ おいしい ⇒ こどもにこれを食べさせてやりたい
⇒ それなのに今はそうすることができない
⇒ そのせいで安眠できない
こどもに食べさせてやりたいのにできない
これこそが憶良の心情であり
共感をさそうのだ
著名な建築家なのだが
「隠れた跳躍」と翻訳してしまった
「沈黙の春」を知らなかったのだ
分野が違えばこんなことが起きる
5月が去って、沈黙の春は終わった
サイレント・サマーが来た
水田が消えてカエルの鳴き声の
ない夏が来た
しかし汝嘆くなかれ
セミが鳴くまでのあと1カ月
沈黙を悲しむなかれ
静寂続きの夏の夜にこそ
想いはあふれ
父母しのばゆ