脚の腕力・腕の脚力(平成26年6月13日)

フロイトかく語りき

言い間違いの中に

その人の真実が現われる

ある人が私にかく語りき

腕の脚力が衰えてねえ

あるいは

脚の腕力が衰えてねえ

だったかもしれない

このとき人生の真実は何だろう

純粋にただの言い間違いなのか

こんなことを考えていると

空を流れていく雲と自分がひとつに融け合って

雲を見上げているのか

それとも

雲を見下ろしているのか

どっちだってよくなってくる

 

 

ニーバーの祈り(平成26年6月11日)

月日は百代の過客

芭蕉は奥の細道をこう書き始めた

6月もまた百代の過客の一人である

きょうもまたおのれにできることと

できないこととを見分け

できることには全力でたちむかい

できないことは静かに受け入れる

古人はかく語っている

変えることのできるものについて

それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ

変えることのできないものについては

それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ

そして

変えることのできるものと変えることのできないものとを

識別する知恵を与えたまえ

まことに6月は知恵の雨がふりそそぎ

老いたる者の上にも

歩く寸前の乳児の上にも

平等にふりそそぎ

われらはその豊饒に育てられるのである

アイ ビリーヴ(平成26年6月8日)

本棚に並んだ本の中には

遠い日に読んだ本、そして今も

捨てられない本が数冊ある。

そのなかの1冊

『私は信ずる』

フォースターという作家のエッセイが

お気に入りだった

そのひとくさり

私がもっとも尊敬する人たちは

まるで彼らが不死の人間であるか、

社会が永遠のものであるかのような風に

行動している。

こうした仮定はいずれも誤りである。

だがもしわれわれが今後も食べ

働き、そして愛しつつ生きていきたいならば

これらの仮定を真実として受け入れなければ

ならない。

季節外れ(平成26年6月8日)

奥山にもみじふみわけ

鳴く鹿の声きくときぞ

秋は悲しき

言わずとしれた小倉百人一首の歌

梅雨とアジサイの6月からは

ほど遠い季節の歌

しかし季節外れもまたよし

常識外れの読み方をしてみたい

きみとぼくふたりは木々の根っこに

足をとられないよう気をつけて

しだいに山の高みへと歩みを進めた

下界の物音が聞えない無音の世界へと

たどりついた

紅葉は散り始めてまるでじゅうたんのよう

ふたりはもみじ葉の上に持参のビニルシートを

広げて寝そべった

木漏れ日がさしてくる

秋っていいな

そのとき鹿の鳴き声が聞えた

こちらへ近づいては去る足音の気配がした

ふたたび無音の世界

きみとぼく

ふたりだけ

秋っていいなあ

 

失われたものよ(平成26年6月7日)

失われたものよ

よみがえれ

6月の夕空はどこまでも青く澄みわたり

きみの瞳にうつっていた

いつまでものぞいていたかったのだが

愚かな者は帰り道に心を奪われてしまった

失われた6月の空の色も

きみの瞳も

失われたものよ

よみがえれ

失われたるもの(平成26年6月7日)

数限りない思い出がわきあがる6月

暮れなずむ空の色に

とけていく時刻におきたこと

ばかりがよみがえる

いつまでも暮れないで

夕焼けがいつまでも続くように

願ったあの日々

失われたるものはなぜかくも美しい

瓜はめばこども思ほゆ(平成26年6月2日)

ネット検索をかけてみると

歌の意味の説明が物足りない

補足してみた

瓜はめば なぜ こどもを

思うのか

こどもにこんなにおいしい瓜を

分け与えて食べさせてやりたいのに

それが今はできない

栗はめばましてしのばゆ

栗を食べているとあまりにおいしいので

わが子にこの栗を食べさせてやりたい気持ちに

かられる。しかしそれが今はできない。

瓜 ⇒ おいしい ⇒ こどもにこれを食べさせてやりたい

⇒ それなのに今はそうすることができない

⇒ そのせいで安眠できない

 

こどもに食べさせてやりたいのにできない

これこそが憶良の心情であり

共感をさそうのだ

 

サイレント・スプリングは終わった(平成26年6月2日)

著名な建築家なのだが

「隠れた跳躍」と翻訳してしまった

「沈黙の春」を知らなかったのだ

分野が違えばこんなことが起きる

5月が去って、沈黙の春は終わった

サイレント・サマーが来た

水田が消えてカエルの鳴き声の

ない夏が来た

しかし汝嘆くなかれ

セミが鳴くまでのあと1カ月

沈黙を悲しむなかれ

静寂続きの夏の夜にこそ

想いはあふれ

父母しのばゆ