男の可愛げ(かわゆげ)

今は昔、アフリカ難民救済活動を志している男がいた。日本の大学で国際経済を勉強し、卒業後はパリの大学院で更に学んだ。帰国後、大学の非常勤講師をアルバイトで務めるかたわら、アフリカ行きの計画を練っていた。その後、アフリカ大陸に渡り、所期の活動に従事した。

この人の名を仮にKさんと名づけておこう。Kさんは背が高く痩身白面の美丈夫でいつも楽しい冗談を言っては笑わせてくれる人だった。ただアフリカ行きの話となると真剣そのものになり弁舌が止まることを知らなかった。

日本にまだくらしていたある日のこと、KさんはJR電車の中で旧知の女友達Sさんと乗り合わせ、つり革につかまりながら二は人談笑していた。例によってKさんはアフリカ難民救済活動について熱弁をふるい、Sさんは熱心に耳を傾けていた。つり革につかまった手の袖口がSさんの目に入った。ほころびが目立ち、ほつれた糸が垂れ下がっていた。その瞬間、SさんはKさんのことがいじらくしてたまらなくなった。

この話をSさんが私に聞かせてくれた。

「本当にKさんたら、自分のシャツがほつれているのも知らずに話しに夢中になっていたのよ。かわいい人ね」

私はKさんの話ぶりやSさんが聞きほれているようすを想像しながら、Sさんの話を味わっていた。

あれから歳月が過ぎ、KさんもSさんも私の日常から遠い人になった。

今思い出すと、 普通の感覚が逆転していたことが興味深い。あえて説明してみると、普通の感覚によれば、袖口がほつれてよれよれのシャツなんぞ着ているのはだらしなく見苦しいことだ。それが180度逆転して男の可愛げに転換することの不思議さ。Kさんが気高い理想を持つ人だったからだろうか。

JR電車は今も変わらず走っている。人来たり人去り、時は平等に過ぎていく。もしかしたら、車中にあって、袖口のほつれたシャツを着て熱弁をふるう男とそれを聞く女の組み合わせは永遠に存在し続けているのかもしれない。

COOL HEAD WARM HEART

英語に触れてから数十年、習った単語を覚えては忘れ、忘れては覚えをくり返してきた。日常、読み書きしなくても暮らせるので、しだいに忘れていき、思い出すは英語を勉強したことで、肝心の内容となると心もとない。それでも反すうしてその意味をかみしめることばがある。私の場合は、COOLとWARMだ。

とにかく日本語の意味をおぼえないといけないというので、COOLは冷たいで、WARMは暖かいとおぼえこませた。よく似た言葉に、COLDとHOTとがある。その違いは何だろうか? 比較的最近まで、この違いがわからなかった。わからなかったというよりも気にしなかった。

今、辞書ふうに解説してみると、こういう説明になる。COOLは冷静な、怜悧な、冷静沈着な、というように良い意味に使用する。これに対して、COLDは冷淡な、心が冷たい、ひややかな、と悪い意味に使用する。こういう説明を聞いて、なるほど!と膝を打った。そうだったのだ。冷戦はCOLD WARと言っていた。昨年夏からはやりのCOOL BIZだって、もしCOLD BIZだったら、普及しなかっただろう。

WARMはどうかと言えば、こちらも心のあたたかな、日差しのあたたかな、と良い意味に使う。他方でHOTはいやな暑さ、悪い熱さのことである。HOT SUMMERというように。でもHOT DOG はどうなるのだろう?

さて表題に戻る。暖かい心と怜悧な頭脳を持つことが、人としての理想なのだと。あたたかい心だけでも不足だし、怜悧な頭脳だけでも不十分だ。両方兼ね備えてこそ、人らしくなる。ともすれば、思慮不足かつ冷淡な心になりがちな日々から、私を救い出してくれますように。こんな祈りを今月今夜の満月にささげた。